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【続】なぜプラシーボを楽しめないのか?

オーディオでは「錯覚」を排除できない

「いま、俺はケーブルを交換したぞ」という意識がある以上、オーディオではプラシーボの可能性から逃れられない。

 なぜなら「せっかく交換したんだから音が変わってほしい」という欲望が、プラシーボの素になるからだ。

 あるいは百歩譲ってそんな希望はもってないにせよ、「ケーブル交換したんだから音が変わってもおかしくはないぞ」のような予期心理自体がプラシーボを呼ぶ。

 結局、オーディオではプラシーボを完全には排除できない。

 にもかかわらず、そこで「俺の感覚は絶対に正しい」、「俺にプラシーボなんてありえない」、「絶対に認めないぞ」などと宗教的な信仰心を発揮してがんばってしまうからストレスになるのだ。

 もとは「音」を「楽」しむために音楽を聴いていたはずなのに、いつしかそれが難行苦行になる。「音がこうなってほしい」という強い欲望を抑えきれず、現実はそうなってないのに認めることができない。やがては自己矛盾を起こし、自分自身が崩壊してしまう。

 だったらどうせプラシーボから逃れられないなら、「音が変わってうれしいな / 楽しいな」のような感覚をプラシーボ込みで楽しんでしまえばいい。

 音楽という言葉は、音を楽しむと書く。そこでがんばってしまうのでなく、プラシーボを楽しんでしまえばあとはバラ色だ。

テーマ : オーディオ機器
ジャンル : 音楽

なぜプラシーボを楽しめないのか?

オーマニは「それ」を絶対に認めない

オーディオマニアはとかく、「プラシーボ」という言葉に過剰反応する。

自分の聴いた「体感」がプラシーボであってはならない、絶対にそんなことは認められない、みたいな感じだ。

あまりにも必死すぎる。

なんだか宗教チックで、実に不思議である。

だってプラシーボを楽しむことも含めて、オーディオの楽しみだといえるからだ。
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DYNAUDIOというスピーカーに出会ったせいで、こんなブログをやってます。

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