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SOULNOTEはメジャー路線にシフトするか?

SOULNOTE_sa30
  SOULNOTE sa3.0(シルバーもあり)

新しい市場を創造する戦略商品のsa3.0

 2011年1月、SOULNOTEはリファレンスアンプだったma1.0と、ハイグレードCDPのcd1.0を生産終了した(ボリュームゾーンのCDP、sc1.0は継続させた)

 今後、新しくフラッグシップを発売するのかもしれないが、いまの時点ではマニア狙いの個性的な高級機をやめ、品数を絞り生産コストを抑えながらボリュームゾーンにビジネスの軸足を移したようにも見える。

 SOULNOTEはこれまで、ターゲットを絞り込んだマニア受けする音作りを目指してきた。だがメジャー市場を狙えるポピュラリティのあるsa3.0(別記事のレビューあり)を投入してきたことを考えれば、このまま製品のスクラップ・アンド・ビルドを進め、マニア以外の普通の人にも広く支持されるメジャー路線にシフトするのかもしれない。

 たとえば使いこなしのノウハウが必要なsa1.0をそうとは知らずに初心者が買い、スピーカーが鳴らずに苦労することはありそうだ。だがsa3.0ならまったくそんな心配はない。

 またsa3.0は駆動力だけでなく、こなれた価格や音色、鳴り方に一般性がありユーザを選ばない。微かな暖かみがあり、「高精細で冷たい音は聴き疲れる」という人でもリラックスして聴ける。もちろん音にこだわりのあるコアな層も満足させるデキだ。

作り手の哲学を表現した「売り筋」と、マスを狙える「売れ筋」

 オーディオ業界ではショップやメーカーの撤退、整理統合が相次ぎ、パイがずっと縮小傾向にある。ただでさえ小さい限られた市場を他社と食い合うのだから、こだわりのニッチ狙いだけではビジネスとして成立しにくい。

 クリエイターとしての思想を体現した「売り筋」は維持するにしろ、今までにない新しい市場を創造しマスを狙えるsa3.0のような「売れ筋」は今後ますます重要になる。

 もし冒頭に書いた推測が当たっているとすれば、メジャー志向と新しい需要の開拓を狙うこの判断は企業戦略として正しい。「10万円台でいいアンプはないか?」と聞かれたら、それがマニアであろうがビギナーであろうが、私はためらうことなくsa3.0を推す。

(追記)

 作者さんはロックを聴くらしいこと、またエネルギー感のあるdc1.0やda1.0を作っていることから考えて、実はもともとsa3.0のようなアンプを作りたかったのではないか、本当はsa3.0のほうが「売り筋」なのではないか? という気もする。

【関連記事】

『SOULNOTE sa3.0、ぶっちゃけエクセレントである』

tag : SOULNOTEsa3.0ma1.0cd1.0sc1.0sa1.0

PRIMARE PRE 30+A33.2、音の消え際の余韻と静寂感を聴く

PRE 30
    PRE 30

虚空にぽっかり音像が浮かび上がる

 軽やかでスピードがある。解像度が高くハッキリ、すっきり。空間に存在する全楽器の音が明瞭に聴き取れる。その意味ではモニター的だが、かといってクールと呼ぶほど冷静でもない。音楽の興奮を聴く者に伝える熱さはある。

 目をひくのは立体的な空間表現だ。何もない虚空にぽっかり音像が浮かび上がり、ステージに立つ演奏者の位置がよくわかる。音像にリアリティがあり、定位感もいい。たとえばカサンドラ・ウィルソンの「New Moon Daughter」を再生させると、くちびるの動きが文字通り見えるようだった。

 そして何より圧巻なのは静的な表現だ。音の消え際の余韻や静寂感がすばらしい。「音符のない空間」を意識させる鳴り方が印象に残った。このアンプは汗が飛び散る動的な表現より、しんしんと岩に染み入るような静的な表現のほうがうまい。

 使用機器は、プリアンプ:PRE 30、パワーアンプ:A33.2。スピーカー:DYNAUDIO CONFIDENCE C1、CDプレーヤー:YBA PASSION 200。

フラットな帯域バランスで低域はタイト

 では楽器の質感はどうだろう? いちばん秀逸だったのはピアノの響きだ。またブラッド・メルドーの「places」(2000年)を聴くと、ラリー・グレナディアの太くムチッとしたベースの質感がよく出ていた。低域の解像度が高いため、グレナディア特有の野太さと厚みがありながら音に滲みがない。

 ベースはわりにエッジが利いており、ズドンと重く響かせるというより、瞬発力を効かせてスパンと打ち抜く感じだ。

 一方、帯域バランスはフラットだ。中高域はスキッと見通しがよく、低域はタイトで反応がいい。重心の低い音に慣れている人には低域がうすいと感じるかもしれないが、引き締まった低音が好みの人にはおすすめだ。

 ただしそれとのトレードオフで、太い低音が生み出す力感のようなものはない。解像度が高くタイトにまとまっているため、演奏がカッチリしすぎて70年代のR&Bのようなラフなソースはワイルドな雰囲気が出ない。

 だが餅は餅屋。オーディオ機器には得意不得意がある。このアンプは空間の広がりや余韻が美しいソースを再生させると持ち味が出る。

 たとえばマーク・ジョンソンのECM盤「Shades of Jade」(2005年)では、朝もやの中をゆらゆら浮遊するようなジョー・ロヴァーノの気だるいサックスや、アンニュイな倦怠感漂う楽曲の雰囲気がドンピシャだった。

 またポール・モチアンがクリス・ポッター、ジェイソン・モランと組み、NYのヴィレッジ・ヴァンガードでライブ録音した「Lost In A Dream」(2010年。同じくECM)もハマった。このアルバムはライブハウスの壁や天井に反射して音が跳ね返ってくる残響感たっぷりで、それが空間の広がりとしてうまく表現されていた。

 エネルギー感や躍動感より、ナイーブな繊細さや透明感、空間表現を求める人にはぴったりのアンプだ。ファンクやLAスワンプは似合わないけど、ECM音源ならどれでも合うよ、って話です、はい。

tag : PRIMAREPRE30A33.2DYNAUDIOCONFIDENCE_C1YBAPASSION_200

B&W CM9とCM8の間には暗くて深い谷がある

B&W CM9

CM9の音場の広さは抜けている

 たとえばCM5とCM9を聴きくらべると、CM9の圧倒的な音の広がりとスケール感ばかりが目立つ。だがCM5とCM8を並べて鳴らすと、「CM8は音に広がりがある。ただし定位や低音のキレはCM5の方がいい」と妙に勝負になってくる。

 その結果、CM5のコストパフォーマンスの高さと完成度をあらためて思い知らされる。(いや、繰り返しになるが広がりはCM8の方があるのだが)

 まあCM5はブックシェルフだから、定位や低音の締まり方が有利なのは当然だ。そこに価値を見出すならCM5、そうではなく音の広がりやスケール感を重視するならCM8、という選択になるだろう。

 だがCM9とCM8の比較になると話は別だ。CM9の音場の広さは抜けている。低音の質をくらべるとCM9は量感のあるやわらかい響き方、一方のCM8は800シリーズの新ウーファに近い弾けるような鳴り方だ。このへんは好みの問題だろう。

 いずれにしろ、予算さえあればCM9はひとつの「双六の上がり」だ。これを買っておけばとうぶん満足できるだろう。登山でいえば、頂上に最後のアタックをかけるための中継地点だ。いや、正確にいえばここで満足する人も多いだろう反面、ここから先の長い迷宮が思いやられる感じもする。

CM5は噛むほどに味が出る

 一方、CM5は発売されてすぐ聴いたときの印象は、長所と短所が半々だった。だがその後、アンプとCDPを替えあちこちのショップで試聴を繰り返すうち、自分の中での評価がどんどん高くなって行った。とても不思議だ。

 もともとデキがよかったのに経験不足でそれに気づかず、他機種と比較するうち相対的にその実力がわかってきた、ということなのか。

 あるいは案外、時間とともに各ショップの店頭にある実機のエージングが進んだ、というのが真相かもしれない。(確かに初めて聴いたときの個体はかなり音が硬かった)
 
 だがそれにしてもCM5みたいなケースは珍しい。畳と女房は古いほうがいい、というが、オーディオではこんなこともあるのだ。

【関連記事】

『B&W CM8、スピーカーの外側に広がるワイドな音場』

『B&W CM9、広がる音に包み込まれる幸せ』

『ツンデレな貴婦人、B&W CM5を聴く』

tag : B&WCM9CM8CM5

音楽ではなく「音響」を聴く人たち

 オーディオに本格的にハマっている人の言動を見ていて「どうも自分とは聴き方がちがうな」と感じていたが、最近なんとなくわかってきた。

 私は「演奏」を聴いているのだが、彼らは「音響」を聴いているのである。

 たとえば私の場合、聴き方はこんなふうだ。

「あっ、いま4小節目の終わりで、サックスのフレーズにドラマーが即興で反応したぞ。サックス奏者が提示したフレーズにリズムを合わせ、瞬間的にシンバルを叩いたな。それを合図にバンド全体が徐々に音数を増やし、演奏をだんだん盛り上げて行くなぁ。たぶん曲のエンディングがもう近いのだろう」

 ちなみにジャズの世界では、このドラマーがサックス奏者に反応したような演奏の仕方を「インタープレイ」という。

 さて一方、オーディオ本格派の人たちは、こういう聴き方だ。

「音像定位がピンポイントだ。ヴォーカリストの口が小さく、音場も広い。スピーカーの外側にまで音像が定位しているぞ」

 つまり演奏者でなく、オーディオ機器による音響が主役なのだ。オーディオに凝る人たちなのだから当然である。

 で、こっち側の人は私のように演奏を受け身で楽しむのでなく、ルームアコースティックやセッティングなどを操り、オーディオ機器を使って音響空間をどう構築するかに注力する。そして音楽を再生することで演奏に参加している。

 どっちがいい悪いの問題ではなく志向の違いだが、それにしても同じCDを聴いていながら着眼点がこれだけ違うのだからおもしろい。

 オーディオは、人間の主観の数だけ聴き方があるのだ。

(追記)

 プレイヤーは演奏することで空間を造形するが、オーディオ好きは環境作りも含め音楽を再生することで空間をデザインする。私はといえば、どっちつかずの半端者である。

【関連記事】

『音楽家とオーディオマニアは音楽の聴き方が違うか?』

『吉田苑が考える「いい音」は音楽家の考える「いい音」と同じか?』

スピーカーの「本当の音」は聴けない

 あるときオーディオをまったく知らない相方がこう言った。

「ねえ、スピーカーの本当の音ってわからないわよね? だってスピーカーはアンプなんかとつないで初めて音が出るわけでしょ? だったら純粋なスピーカーの音とか、アンプの音なんてどうやったらわかるの?」

 我々は100%純粋なスピーカーの音、アンプの音を聴くことは永遠にない。

 素人さんは既成概念にとらわれない分、その分野に詳しい人がかえって気づかないような鋭い視点、斬新な発想でものを見る。

 DYNAUDIOの「本当の音」ってどんなだろう。

電源ケーブルで音は変わるか? ~客観的なものの見方のすすめ

 私は音楽を楽しむためにオーディオ機器を持っている。だからもし機械を介さず音楽が聴けるならそれでもいい。たとえば自宅で毎日、ライブが観られればそっちのほうがいい。

 だが昔の王侯貴族じゃあるまいし、自宅に毎日バンドを呼び、1日中演奏してもらうなんて不可能だ。とすればCDなどのメディアを使い、自宅を仮想的にライブハウス化するしかない。

 しかしCDを聴くには再生装置がいる。ゆえに私は「仕方なく」オーディオ機器を使っている。わかりやすくいえば、私にとってオーディオ機器は「必要悪」だ。

 そんな人間だから、私は電源ケーブルやインシュレータなどの小道具に強い思い入れはない。というより「まったくない」と言ったほうが正しい。

 個人的な思い入れが一切ないから、電源ケーブルを試聴するとき、私は簡単に「第三者的な立場」に立てる。そういう意識で試聴に臨める。すなわち私は客観的に電源ケーブルの試聴ができる。

当事者が考えたことはすべて主観か?

 では「客観的」とはいったい何か? それを説明する前に、電源ケーブルで「音は変わらない」と唱えるみなさん(以後、「変わらない」派)のよくある主張を以下にあげよう。

【主張A】

 当事者である「本人自身」が感じたことは、すべて主観にすぎない。プラシーボ効果の可能性があり、当てにならない。だから測定機器による計測や二重盲検法(ブラインドテストの一種)により、音が変わることを客観化する必要がある。それが行われなければ音が変わることの証明にならない。


 このテの議論では、「主観と客観」なる言葉がまちがった解釈にもとづき乱用されがちだ。そこで客観とは何かについて、まず正確に定義しておこう。以下にgoo辞書を引用する。

【客観】

当事者ではなく、第三者の立場から観察し、考えること。また、その考え。かっかん。
「つくづく自分自身を―しなければならなくなる」


「変わらない」派の唱える【主張A】は、主観と客観の意味を誤用していることにお気づきだろうか?

 今回の議論における「当事者」とは、「電源ケーブルで音が変わる」と感じている人たちである。そして辞書には「第三者」のすぐあとに、「の立場から」という表現があることに注目してほしい。

 つまり当事者であっても、その人が第三者的な立場に立って観察し、ものを見れば客観なのだ。当事者が考えたこと=すべて主観ではない。

「変わる、変わらない」のテーマに即してわかりやすくいえば、当事者が「当事者の立場」で自己の利益を守り、自分の主張を通すために考えた利己的な思念が「主観」である。

 一方、当事者であっても第三者的な立場に立ち、自己の利益や守りたい主張にとらわれずにものを見ることが「客観」だ。すなわち人間は「客観的にものを見る」ことができるのだ。

 では「客観的」とはいったい何か?

【客観的】

特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま。「―な意見」「―に描写する」


 もうおわかりだろう。辞書に出ているのだから明白だ。たとえ当事者であっても特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりすればそれは客観的な分析なのだ。

 繰り返しになるが、私の目的は音楽を楽しむことだ。オーディオ機器はそれを実現するための手段にすぎない。だから電源ケーブルには何の思い入れもない。つまり私は「電源ケーブルで音が変わってほしい」と強く願う立場の人間ではない。変わろうが、変わるまいが、そんなことはどーでもいい。

 だから私は電源ケーブルを第三者の立場で客観的に試せる。そのためプラシーボ効果が起こる余地もきわめて少ない。(もちろんゼロとは言わない。そのほうが「科学的」だ。そしてゼロだと言い切れないから、何度も繰り返し試聴するのだ)

強い期待がプラシーボ効果を呼ぶ

 では次にプラシーボ効果が起こる際の人間心理について考えてみよう。

 たとえばUFOの存在を信じる人は、裏を返せば「UFOが存在していてほしい」と強く期待している人々だ。ゆえに夜空を見上げて光る物体などあろうものなら、即座に「UFOだ」、「おれはUFOを見たぞ」と断じてしまう。

 彼らは決してそこで一歩、身を引き冷静になって「この光る物体はもしかしたら流れ星かもしれないぞ」などと客観的にものを見たりしない。「UFOが存在していてほしい」という強い期待が彼らの心理にバイアスをかけ、光るものを見ればUFOだと主観的に即断する。

 すなわち宗教と同じく「信じる心」が人間の心理にフィルターをかけ、一定方向のものしか見えない状態にしているわけだ。

 似たようなことは何にでもいえる。

 たとえば「超能力は存在する」と信じる人が、スプーン曲げに挑戦したとしよう。彼はスプーンをこすっている最中ずっと、「曲がれ」と念じる。なぜなら「超能力が存在していてほしい」からだ。

 そしてスプーンをこする作業を一定時間続けたのち、ふと、「ここで曲がったら『おもしろい』のになぁ」という思考が脳裏をよぎる。

 すると彼は次の瞬間、無意識のうちに「グッ」と腕に力を入れ、腕力でスプーンを曲げてしまうのだ。

「おおっ、曲がったぞ!」

 もちろん彼は、意図的に曲げたなどとは思っていない。

 半信半疑でスプーンをこする間中、「本当に曲がったらおもしろいのに」、「明日、学校でクラスのやつらに自慢できるぞ」てな思念が深層意識に渦巻いていた。こうした「期待」が無意識のうちに彼をして、腕でスプーンを曲げさせるのだ。

 しかも彼はそれをまったく覚えてないばかりか、「実際に超能力でスプーンが曲がった」と信じ込んでいる。

 人間の「信じる心」、「期待する心」は、こうして脳にプラシーボ効果を呼び起こす。

 上のほうで「私は電源ケーブルを試聴してもプラシーボ効果が起こる余地がきわめて少ない」と書いたが、その意味がおわかりになっただろうか? 

 私は電源ケーブルに何の思い入れもない。だから「信じる心」なんてない。音が変わることを期待してもいない。それどころか、「変わるのか? 変わらないのか? 実際はどうなんだろう。客観的に検証してやろう」という姿勢で試聴している。

 なんせ「オーディオなんて手段にすぎない」、「必要悪だ」と放言する人間が試聴しているのだ。放っておいても第三者的、客観的なものの見方になる。

 そんなメンタリティの私が「目の前で起きている現象は果たして本物か?」と「疑う心」をもち、「検証する目」で試聴しているのだ。試聴結果の客観性は推して知るべしである。

客観性はシステムによってのみ担保される?

 そもそも「変わらない」派の方々は、次のような勘違いをしている。

 音が変わると主張する人は、全員、電源ケーブルに強い愛着や思い入れがある。だから彼らがふつうの方法で試聴すれば、きわめて主観的で恣意的な結果しか出ない。プラシーボ効果の可能性が大だ。だから検証法を測定機器による計測や二重盲検法に限定し、「システム的」に客観的な結果が出ざるを得ないようにする必要がある。


 この「変わらない」派の考えは一部正しいが、「客観性はシステム的な方法によってのみ担保される」、「それ以外に客観的な結果を出す手段はない」と思い込んでいるところがまちがっている。人間をなめているのだ(笑)

 人間はシステムによらずとも、客観的にものを見ることができる。

 要はシステム(検証法)の問題ではなく、ものの見方の問題なのだ。

 そもそも「変わらない」派のみなさんは、科学を標榜するタイプの方が多いのではないか? 科学者なら当然、客観的なものの見方ぐらいご存知のはずだ。

 確かに一般論として、人間の認知のしかたは主観的になることが多い。だが意識の持ち方しだいで、人間は客観的にものを見ることができる。

 客観的なものの見方ができるかどうかは、ひとつにはシチュエーションに負う場合がある。たとえばAさんが当事者ではなく第三者なら、Aさんはごく自然に対象となる現象を客観的に観察し、分析できる(※1)

 また仮に当事者であっても、システム的に客観的な見方にならざるを得なくする方法もある。そのひとつがブラインドテストだ。

 次に第三のケースとして、自分の意識の持ち方をコントロールする方法もある(※2)。ただしこれは、できる人とできない人がいる。たとえば自分自身や、自分の愛用品(一例としてオーディオ製品)を他人にマイナス評価されたとき、すぐ感情的になって冷静な判断力を失うタイプの人はむずかしい。

 したがって客観的にものを見られるかどうか? は先天的な素養(性格)による面もあるが、実は後天的なトレーニングで培われるケースも多い。

 トレーニングといっても特別な方法ではない。たとえば本を読むことでも客観思考は養われる。特に認知心理学や哲学の本などは効果的だ。このほかジャーナリスト志望者向けの「客観報道とは?」のような本も役立つし、これらのエッセンスを含んだ単なる作家のエッセイでもいい。

 第四に、客観的なものの見方ができる事例のうち、最もポピュラーなのは職業に起因するケースだ。たとえば科学者や哲学者、サイコセラピスト、ジャーナリスト、マーケッター、裁判官などは、対象を分析するにあたり、客観的なものの見方ができなければ仕事にならない。

心のスイッチをオン・オフし、主観と客観を切り替える

 まとめよう。

1.私にとってオーディオは、音楽を聴くための手段にすぎない。ゆえにオーディオに対し、ひいきの引き倒しをする意識はない(第三者的な立場である)

2.私は電源ケーブルに特別な思い入れはない。というより、どーでもいい。そもそもオーディオ自体が私にとって目的ではなく手段だから、その部分的なパーツにすぎない電源ケーブルならなおさらだ(第三者的な立場である)

3.私は上記1、2の「シチュエーション的な要素」(上の※1参照)により、おのずと電源ケーブルを客観的に試聴できる立場にある。

4.私は主観に陥りがちな意識の持ち方をコントロールし(※2参照)、いまこの瞬間も客観的に思考している。その証拠にオカルトにハマる人の心理を援用し、ともすれば「電源ケーブルで音が変わる」ことを主張するのに不利になりかねないプラシーボの可能性さえ検討している。第三者的立場に立ち、客観的にものを見られなければこんなスタンスは取れない。

 ではなぜ私にはそれができるのか? 私の目的は「電源ケーブルで音が変わるのを主張すること」ではなく、「客観的事実は何か?」を希求することだからである。

 え? つべこべ言わずに、変わるのか、変わらないのか、早く「答えを言え」って?

 いいえ、言いません。だって今度あなたが聴きくらべるとき、私の「答え」が頭にあったらプラシーボのもとになるでしょ?


(追記)

 ここまで読んだみなさんはもうおわかりだろうが、私はオーディオを「必要悪」と考えているわけでもなければ、「仕方なく」聴いているわけでもない。主観に陥りがちな自分の意識をコントロールし、(そうすべき場面では)オーディオを客観的に見ているだけだ。

 自宅でひとり音楽を聴くときは、たっぷり主観にひたり理屈抜きに楽しむ。だが音楽やオーディオを分析したり、誰かと議論したりするときには、客観的にそれらを見る。必要に応じて心のスイッチをオン・オフし、主観と客観を切り替えているのである。

 とはいえ記事の冒頭からいきなり、「私は場面によっては、オーディオに対し客観的なものの見方で接しています」などど書いても意味不明だろう。

 だから話をわかりやすくするために、「必要悪」、「仕方なく」という表現を使った。こう書けば必然的に私が「第三者的立場」に設定され、私を例に客観を取り巻く論理構造をわかりやすく説明できるからだ。つまり「必要悪」、「仕方なく」はひとつのレトリックであり、言葉のアヤだ。

 本来、こうした解説は蛇足だが、「必要悪」と聞いて記事を誤読し、怒り出す人がいるかもしれないのであえて説明をつけ加えた。ちなみに「オーディオは必要悪だ」という他人の評価に接しても、感情的にならず(主観的な反応をせず)、そうした他者のマイナス評価を自分の中で淡々と情報処理するのも客観的なものの見方のひとつだ。

ONKYO A-1VLがまだある風景


ONKYO A-1VL

 あるショップでONKYO A-1VLがひっそり終焉の時を迎えようとしている。生産終了からもうしばらくたつがいまだに売れ残り、だから私はいつでもその店で彼女の歌声を聴くことができる。いま聴いても惚れ惚れする傑作アンプだ。

 A-1VLといえばひとつだけ悔いがある。まだ彼女が現役のころ、「君はきれいだ」と十分に声をかけてやれなかったことだ。なぜなら彼女はいつも、どこのショップへ行っても、私の好みではないONKYOのスピーカーにつながっていたからだ。

 スピーカーが好みでなければ、当然、出てくる音は好みじゃない。だから私は彼女をなかなか正しく評価できなかった。彼女の本当のよさに気づいたのは、もうほとんど生産終了まぎわだった。

 彼女と私はこうしてタイミングを失い、もう決して同じレールの上を走ることはない。それがよくわかっているから、その店で売れ残った彼女にはいい相手が見つかるといいなと思う。

 だが彼女を見初める男が現れたが最後、私はもう二度とその店で彼女の歌声を聴くことはできない。

 いい相手と幸せになってほしい。

 だがそうなればもう彼女と会えない。

 オーディオでこんなセンチメンタルな気分になったのは初めてだ。

tag : ONKYOA-1VL

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DYNAUDIOというスピーカーに出会ったせいで、こんなブログをやってます。

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CDT:SOULNOTE sc1.0

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