私は音楽を楽しむためにオーディオ機器を持っている。だからもし機械を介さず音楽が聴けるならそれでもいい。たとえば自宅で毎日、ライブが観られればそっちのほうがいい。
だが昔の王侯貴族じゃあるまいし、自宅に毎日バンドを呼び、1日中演奏してもらうなんて不可能だ。とすればCDなどのメディアを使い、自宅を仮想的にライブハウス化するしかない。
しかしCDを聴くには再生装置がいる。ゆえに私は「仕方なく」オーディオ機器を使っている。わかりやすくいえば、私にとってオーディオ機器は「必要悪」だ。
そんな人間だから、私は電源ケーブルやインシュレータなどの小道具に強い思い入れはない。というより「まったくない」と言ったほうが正しい。
個人的な思い入れが一切ないから、電源ケーブルを試聴するとき、私は簡単に「第三者的な立場」に立てる。そういう意識で試聴に臨める。すなわち私は客観的に電源ケーブルの試聴ができる。
当事者が考えたことはすべて主観か? では「客観的」とはいったい何か? それを説明する前に、電源ケーブルで「音は変わらない」と唱えるみなさん(以後、「変わらない」派)のよくある主張を以下にあげよう。
【主張A】
当事者である「本人自身」が感じたことは、すべて主観にすぎない。プラシーボ効果の可能性があり、当てにならない。だから測定機器による計測や二重盲検法(ブラインドテストの一種)により、音が変わることを客観化する必要がある。それが行われなければ音が変わることの証明にならない。
このテの議論では、「主観と客観」なる言葉がまちがった解釈にもとづき乱用されがちだ。そこで客観とは何かについて、まず正確に定義しておこう。以下にgoo辞書を引用する。
【客観】
当事者ではなく、第三者の立場から観察し、考えること。また、その考え。かっかん。
「つくづく自分自身を―しなければならなくなる」
「変わらない」派の唱える【主張A】は、主観と客観の意味を誤用していることにお気づきだろうか?
今回の議論における「当事者」とは、「電源ケーブルで音が変わる」と感じている人たちである。そして辞書には「第三者」のすぐあとに、「の立場から」という表現があることに注目してほしい。
つまり当事者であっても、その人が第三者的な立場に立って観察し、ものを見れば客観なのだ。当事者が考えたこと=すべて主観ではない。
「変わる、変わらない」のテーマに即してわかりやすくいえば、当事者が「当事者の立場」で自己の利益を守り、自分の主張を通すために考えた利己的な思念が「主観」である。
一方、当事者であっても第三者的な立場に立ち、自己の利益や守りたい主張にとらわれずにものを見ることが「客観」だ。すなわち人間は「客観的にものを見る」ことができるのだ。
では「客観的」とはいったい何か?
【客観的】
特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま。「―な意見」「―に描写する」
もうおわかりだろう。辞書に出ているのだから明白だ。たとえ当事者であっても特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりすればそれは客観的な分析なのだ。
繰り返しになるが、私の目的は音楽を楽しむことだ。オーディオ機器はそれを実現するための手段にすぎない。だから電源ケーブルには何の思い入れもない。つまり私は「電源ケーブルで音が変わってほしい」と強く願う立場の人間ではない。変わろうが、変わるまいが、そんなことはどーでもいい。
だから私は電源ケーブルを第三者の立場で客観的に試せる。そのためプラシーボ効果が起こる余地もきわめて少ない。(もちろんゼロとは言わない。そのほうが「科学的」だ。そしてゼロだと言い切れないから、何度も繰り返し試聴するのだ)
強い期待がプラシーボ効果を呼ぶ では次にプラシーボ効果が起こる際の人間心理について考えてみよう。
たとえばUFOの存在を信じる人は、裏を返せば「UFOが存在していてほしい」と強く期待している人々だ。ゆえに夜空を見上げて光る物体などあろうものなら、即座に「UFOだ」、「おれはUFOを見たぞ」と断じてしまう。
彼らは決してそこで一歩、身を引き冷静になって「この光る物体はもしかしたら流れ星かもしれないぞ」などと客観的にものを見たりしない。「UFOが存在していてほしい」という強い期待が彼らの心理にバイアスをかけ、光るものを見ればUFOだと主観的に即断する。
すなわち宗教と同じく「信じる心」が人間の心理にフィルターをかけ、一定方向のものしか見えない状態にしているわけだ。
似たようなことは何にでもいえる。
たとえば「超能力は存在する」と信じる人が、スプーン曲げに挑戦したとしよう。彼はスプーンをこすっている最中ずっと、「曲がれ」と念じる。なぜなら「超能力が存在していてほしい」からだ。
そしてスプーンをこする作業を一定時間続けたのち、ふと、「ここで曲がったら『おもしろい』のになぁ」という思考が脳裏をよぎる。
すると彼は次の瞬間、無意識のうちに「グッ」と腕に力を入れ、腕力でスプーンを曲げてしまうのだ。
「おおっ、曲がったぞ!」
もちろん彼は、意図的に曲げたなどとは思っていない。
半信半疑でスプーンをこする間中、「本当に曲がったらおもしろいのに」、「明日、学校でクラスのやつらに自慢できるぞ」てな思念が深層意識に渦巻いていた。こうした「期待」が無意識のうちに彼をして、腕でスプーンを曲げさせるのだ。
しかも彼はそれをまったく覚えてないばかりか、「実際に超能力でスプーンが曲がった」と信じ込んでいる。
人間の「信じる心」、「期待する心」は、こうして脳にプラシーボ効果を呼び起こす。
上のほうで「私は電源ケーブルを試聴してもプラシーボ効果が起こる余地がきわめて少ない」と書いたが、その意味がおわかりになっただろうか?
私は電源ケーブルに何の思い入れもない。だから「信じる心」なんてない。音が変わることを期待してもいない。それどころか、「変わるのか? 変わらないのか? 実際はどうなんだろう。客観的に検証してやろう」という姿勢で試聴している。
なんせ「オーディオなんて手段にすぎない」、「必要悪だ」と放言する人間が試聴しているのだ。放っておいても第三者的、客観的なものの見方になる。
そんなメンタリティの私が「目の前で起きている現象は果たして本物か?」と「疑う心」をもち、「検証する目」で試聴しているのだ。試聴結果の客観性は推して知るべしである。
客観性はシステムによってのみ担保される? そもそも「変わらない」派の方々は、次のような勘違いをしている。
音が変わると主張する人は、全員、電源ケーブルに強い愛着や思い入れがある。だから彼らがふつうの方法で試聴すれば、きわめて主観的で恣意的な結果しか出ない。プラシーボ効果の可能性が大だ。だから検証法を測定機器による計測や二重盲検法に限定し、「システム的」に客観的な結果が出ざるを得ないようにする必要がある。
この「変わらない」派の考えは一部正しいが、「客観性はシステム的な方法によってのみ担保される」、「それ以外に客観的な結果を出す手段はない」と思い込んでいるところがまちがっている。人間をなめているのだ(笑)
人間はシステムによらずとも、客観的にものを見ることができる。
要はシステム(検証法)の問題ではなく、ものの見方の問題なのだ。
そもそも「変わらない」派のみなさんは、科学を標榜するタイプの方が多いのではないか? 科学者なら当然、客観的なものの見方ぐらいご存知のはずだ。
確かに一般論として、人間の認知のしかたは主観的になることが多い。だが意識の持ち方しだいで、人間は客観的にものを見ることができる。
客観的なものの見方ができるかどうかは、ひとつにはシチュエーションに負う場合がある。たとえばAさんが当事者ではなく第三者なら、Aさんはごく自然に対象となる現象を客観的に観察し、分析できる(※1)
また仮に当事者であっても、システム的に客観的な見方にならざるを得なくする方法もある。そのひとつがブラインドテストだ。
次に第三のケースとして、自分の意識の持ち方をコントロールする方法もある(※2)。ただしこれは、できる人とできない人がいる。たとえば自分自身や、自分の愛用品(一例としてオーディオ製品)を他人にマイナス評価されたとき、すぐ感情的になって冷静な判断力を失うタイプの人はむずかしい。
したがって客観的にものを見られるかどうか? は先天的な素養(性格)による面もあるが、実は後天的なトレーニングで培われるケースも多い。
トレーニングといっても特別な方法ではない。たとえば本を読むことでも客観思考は養われる。特に認知心理学や哲学の本などは効果的だ。このほかジャーナリスト志望者向けの「客観報道とは?」のような本も役立つし、これらのエッセンスを含んだ単なる作家のエッセイでもいい。
第四に、客観的なものの見方ができる事例のうち、最もポピュラーなのは職業に起因するケースだ。たとえば科学者や哲学者、サイコセラピスト、ジャーナリスト、マーケッター、裁判官などは、対象を分析するにあたり、客観的なものの見方ができなければ仕事にならない。
心のスイッチをオン・オフし、主観と客観を切り替える まとめよう。
1.私にとってオーディオは、音楽を聴くための手段にすぎない。ゆえにオーディオに対し、ひいきの引き倒しをする意識はない(第三者的な立場である)
2.私は電源ケーブルに特別な思い入れはない。というより、どーでもいい。そもそもオーディオ自体が私にとって目的ではなく手段だから、その部分的なパーツにすぎない電源ケーブルならなおさらだ(第三者的な立場である)
3.私は上記1、2の「シチュエーション的な要素」(上の※1参照)により、おのずと電源ケーブルを客観的に試聴できる立場にある。
4.私は主観に陥りがちな意識の持ち方をコントロールし(※2参照)、いまこの瞬間も客観的に思考している。その証拠にオカルトにハマる人の心理を援用し、ともすれば「電源ケーブルで音が変わる」ことを主張するのに不利になりかねないプラシーボの可能性さえ検討している。第三者的立場に立ち、客観的にものを見られなければこんなスタンスは取れない。
ではなぜ私にはそれができるのか? 私の目的は「電源ケーブルで音が変わるのを主張すること」ではなく、「客観的事実は何か?」を希求することだからである。
え? つべこべ言わずに、変わるのか、変わらないのか、早く「答えを言え」って?
いいえ、言いません。だって今度あなたが聴きくらべるとき、私の「答え」が頭にあったらプラシーボのもとになるでしょ?
(追記)
ここまで読んだみなさんはもうおわかりだろうが、私はオーディオを「必要悪」と考えているわけでもなければ、「仕方なく」聴いているわけでもない。主観に陥りがちな自分の意識をコントロールし、(そうすべき場面では)オーディオを客観的に見ているだけだ。
自宅でひとり音楽を聴くときは、たっぷり主観にひたり理屈抜きに楽しむ。だが音楽やオーディオを分析したり、誰かと議論したりするときには、客観的にそれらを見る。必要に応じて心のスイッチをオン・オフし、主観と客観を切り替えているのである。
とはいえ記事の冒頭からいきなり、「私は場面によっては、オーディオに対し客観的なものの見方で接しています」などど書いても意味不明だろう。
だから話をわかりやすくするために、「必要悪」、「仕方なく」という表現を使った。こう書けば必然的に私が「第三者的立場」に設定され、私を例に客観を取り巻く論理構造をわかりやすく説明できるからだ。つまり「必要悪」、「仕方なく」はひとつのレトリックであり、言葉のアヤだ。
本来、こうした解説は蛇足だが、「必要悪」と聞いて記事を誤読し、怒り出す人がいるかもしれないのであえて説明をつけ加えた。ちなみに「オーディオは必要悪だ」という他人の評価に接しても、感情的にならず(主観的な反応をせず)、そうした他者のマイナス評価を自分の中で淡々と情報処理するのも客観的なものの見方のひとつだ。